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レビュー:スクラップ・アンド・ビルド

ものすごくミーハーかもしれないけど、最近話題になった芥川賞の『スクラップアンドビルド』を読んだので適当に感想を垂れ流そうと思います。

スクラップ・アンド・ビルド

スクラップ・アンド・ビルド

 

この作品、芥川賞受賞作品というのもあってちょっと肩ひじ張って読んでたんですけど、物凄く読みやすくてメッセージもハッキリしていたのでかなり面白かったです。 

 

あと、どうでもいいけど表紙がベックリンの「死の島」っぽくてデザイン良いですよね。陰鬱で閉塞的で良い。

 *コンクリの質感とか好き

 

あらすじ

「早う死にたか」
毎日のようにぼやく祖父の願いをかなえてあげようと、
ともに暮らす孫の健斗は、ある計画を思いつく。

日々の筋トレ、転職活動。
肉体も生活も再構築中の青年の心は、衰えゆく生の隣で次第に変化して……。
閉塞感の中に可笑しみ漂う、新しい家族小説の誕生

引用:Amazon商品紹介より

 

登場人物としては現在求職中である主人公の健人祖父、そしてその祖父の介護に勤しむ健人の。あと、健人の恋人である亜美

                                      

職が無い健人は多くの面接を受けながら行政書士の資格試験も勉強する身であったが、祖父の苦しむ姿や口癖の「早く死んだら良かと」を文字通り受け、彼を如何にして穏やかに殺すかについて真剣に考える。

 

ここで出てくる「足し算の介護」という考え。健人は優しさに優しさを加え、過剰な世話によって真綿で首を絞める様に穏やかに殺す方法に行きつく。人間の使わない機能はどんどん衰えていく。祖父の世話を尽くす事により、彼から多くの機能を奪い、何もかもが認識出来ない状態で殺そうと思いついたのだ。

 

一方でこれからの生に希望を持つ健人は、自身がこれから生きていくのに必要なのは祖父に行っている事とは全く別の方向であると知る。それこそ『スクラップアンドビルト』だ。使わなければ衰える身体機能を、端的には筋肉であるが、過剰な酷使(スクラップ)の後に訪れる痛みと超回復(ビルド)によって高めようとする。生きるとは常に強い意志を持って己を律し、体を“壊し”続けなければならない、こういうマッチョな思考に至る。なので、使わない機能が衰えぬように常にメンテナンスを心掛ける健人。

 

玉響な思いつきであったそれは次第に健人に覆いかぶさり、恋人の亜美を見る目が変わる。駅では階段に目を向けずに障碍者用のエレベーターに直行していく亜美、電車では老人など歯牙にも掛けず座席に座る亜美、セックスでは騎乗位でほんの少し動くだけの亜美。彼女の本質は健人の祖父と同じで、自立心を失い怠慢に逃げる、弱くて、汚くて、卑屈な人間なのだと。ついには亜美との関係性さえスクラップさせる。

 

物語の最後に自立心を持った(物語上は)”強者”であった健人が新居までの電車の中で若いエグゼクティブなカップルや子供連れの家族を見かけて、思わず”祖父”の姿を探す。自分より心身ともに衰えた”弱者”を。そして自分は実は酷く不安定な存在であることを自覚する。それでも、闘い続けるしかないのだ。

 

介護の現状

この作品においては介護、それも自宅で介護をする側から眺めた介護にスポットライトが当てられており、高齢化社会の現実を描いた社会派な作品だとかなんとか言われてます。僕自身、身内に要介護者が居ないのであんまり実感が湧かなかったんですけどね。ただ、介護によるストレスから健人の母親が「糞じじいが・・・」「あんにゃろう」と口を荒げていて、「身内に対してそんな口調はどうなんだろう」とか考えながら読んでしまったけど、もはやそういう長幼の序とか父子の親みたいな儒学による倫理的考えなんて通用しない所にまで来てるんですかね?自分の両親の介護とか考えるとどんどん憂鬱になる…

作中の対立軸とテーマ

健人の母の話題が出たのでついでに作中の対立について少し書きます。作中でのわかりやすい対立軸として「足し算の介護」と「引き算の介護」が登場します。足し算の介護については上述しましたが、引き算の介護とは単にその逆です。使い終わった皿を片づけるのを他人に頼る祖父に対して「自分でしろっ」とキッパリ言う母親。これらは一見正反対のスタンスに見えるかもしれませんが、祖父について真剣に考えた末の意見であり、方法が違えど実は根底で繋がっているという事です。母は祖父の自立を考えて自分のことは自分でやらせようとし、健人は祖父の望む穏やかな死を実現させるために過剰な優しさを注ぎます。

これに加えて全く同じ構造でもう一つの対立軸として出てくるのが、祖父の事を”真剣に”考えている母や健人と、「おじいちゃんがかわいそう」などとキレイゴトを並べる健人の姉。これも祖父の介護について真剣に考えているか否かで正反対に見えますが、どちらにせよ、利己的な判断から祖父の介護を述べているという点で同根であるのです。

  • 足し算の介護により祖父の安楽な死を目指す健人は、祖父を反面教師に落とし込み自分と比較しての”弱者”として存在して欲しかっただけ
  • 引き算の介護により祖父の自立を目指す健人の母は、手がかかり煩わしい祖父が自分にとってストレスをあまり与えないものとして存在して欲しかっただけ
  • キレイゴトを並べる健人の姉は、自分の目の前で責め立てられる祖父を見るのが自分にとっては不快でありやめて欲しかっただけ

と、母や健人はあくまでも”自分の立場から”祖父の事を考えているという利己的なものであり、健人の姉は言わずもがなその場その場で自分にとって不快な光景を排除しようとしているだけの利己的な行動です。アクターが全員表面上は利他的な人物に思われて実は利己的でしかない、ということが共通して言えるのではないでしょうか。

 

また(健人にとっては)”弱者”である祖父や恋人の亜美と”強者”である健人自身の対立が存在します。しかしこの弱者と強者というのは、彼彼女らをそのような枠に無理やり押し込んでいるに過ぎず、閉塞的な状況で健人が前に進む推進力として利用しているだけなのです。「死にたい」と口にしていた祖父。健人はそんな祖父を心が弱く、だからこそ目先の快楽である死を求めていると考えたが、祖父は健人に黙って複雑な操作の末に冷凍ピザを焼き、その証拠を隠滅したり、ケースワークの女性に色目を使って不必要なボディタッチをしたり、そして風呂場で溺れた時に「死ぬかと思った」などと述べるなど、卑しい生への執着を見せていました。祖父の行動が”弱者”のそれとは乖離した事に不気味さを感じた健人。亜美との関係性においても”強者”であると高をくくっていた健人が亜美から別れを告げられるなど。”強者”と”弱者”の対立は不安定なものであり揺らぎを見せるのです。対立は健人の利己的な思いが生み出した幻想に過ぎないのかもしれません。巨視的には、彼彼女らの弱さや汚さや卑屈さも、そんな彼らを”弱者”とカテゴライズする健人も利己的でしか無く、そこに違いは認められないと思えます。

 

まとめ

介護というテーマを通して、現代社会の利己的な人間たちを描いている本作。形は違えど皆生き辛さをを抱えて過ごしており、それに対するアンサーであるのか、決意宣言であるのか、「闘い続けるしかないのだ。」という健人のラストの台詞。

まだ一読しかしてないので纏まらない感想にはなりましたが、2時間もあれば読める程度の長さなので是非自分でも読んでみて下さい。

 

締まらない終わり方ですけど、今日はこの辺で。