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レビュー:あん

この前、地元の映画館でアンコール上映をやってたあんを観たのでレビューを書こうかなと思います。そもそもこの映画、留学の時の知り合いにこの前Skypeした時、「あんと言う映画を知ってるか?最高に面白いぞ。日本人なのに観てないのか?」と言われ(煽られ)て、ちょっと気になっていました。

*全国のイオンシネマで観れるみたい。

 結論から言うと、この映画は映画館で観る事はお勧め出来ません。マジで泣けますから。先日鑑賞しに行った時、シアターには10人ほどしかいなかったのですが、映画の最中にあちこちから鼻を啜る音や咽ぶ音が聞こえてました。僕も案の定ボロボロに泣いてしまい、僕を含めてほとんどの人がエンドロールの最中に退出してました。(まだ暗いままなので泣き顔を見られずに済むし。)何と言う催涙映画である事か。ポテンシャル的にはマイベストに難なく入り得る感じの面白さ。原作もちょっと気になりました。時間があったら読みたいな…

([と]1-2)あん (ポプラ文庫)

([と]1-2)あん (ポプラ文庫)

 
 あらすじ

人生に暗い影を持つ千太郎は、甘いモノが苦手なのにも関わらず、桜咲き乱れる並木道の路傍のどら焼き屋で雇われ店長をしていた。ある日、徳江と名乗る老婆が店に現われ、自分を雇ってくれと拝み倒してくる。明らかに不自由な手をした老婆を見て千太郎は一度はあしらうものの、再度訪れた際に手渡された餡の美味しさに感動し、彼女を雇う事に。今までは業務用の餡子を使っていたが、徳江による手作りの餡で店は大繁盛。噂が噂を呼び、店には行列が出来る事になった。徳江はやがて千太郎の元に毎日失敗したどら焼きを貰いに来る母子家庭の中学生ワカナとも親交を深め、張りのある、順風満帆な日々を送る。しかし、ある日徳江の手が不自由であるのはハンセン病の為である事が周囲に知れ渡り、客足はピタリと途絶えてしまった。責任を感じて店を去る徳江。そんな徳江を引き留められなかった千太郎。ワカナは苦悩する千太郎を見かねて共に徳江の居るハンセン病隔離施設へと向かう。

まず物語の中心となるのはどら焼き屋を中心にして出会う3人の人物です。冒頭も終わりも、あまりに眩しい陽の光と爛漫に咲き乱れる桜。陽の光を眩しすぎるとまで感じるのは登場人物の人生に影が差し、どことなく表情が暗いからでしょうか。前科のある雇われ店長の千太郎ハンセン病の老婆徳江。母子家庭の女子中学生ワカナ。 ハンセン病を患う徳江と彼女を取り巻く、無理解な世間と言う環境の変化によって、それぞれが「陽のあたる社会で生きたい」と強く願うようになるというのが、大まかな筋になります。

感想と考察

まずこの映画の素晴らしい点と言うと、俳優・女優の何とも細やかな機微を表わした演技です。特に徳江役の樹木希林による、長い人生を感じさせる重々しさ、全ての"声"に耳を傾ける慈しみ深さ、死を連想させる静謐さ、あらゆる魅力を感じさせる演技には驚かされました。彼女でなければ、これほどまでに説得力のある物語にならなかったのかな、と思います。また、永瀬正敏の、表情で語る演技も良かった。ちょっと言葉足らずでも、目や顔つきで語る不器用な店長役がぴったりハマってて、その口数の少なさがこれぞ邦画!という感じでした。

また物語にマッチした音響の使い方にも驚かされました。ハンセン病隔離施設で人生の大半を費やし、子供を産む機会さえ取り上げられた徳江は言います。「何かになれなくとも、人生に意味はある。」それは自然が常に声を発していて、その物語に耳を澄ませる事をしてきた彼女なりのものなのです。本作の音響はそんな物語に沿うように、けばけばしいBGMを多用せず、そよ風の囁きを、渓流で砕ける水の音を、鍋の中でくつくつと煮られた小豆の音を、しっかりと拾い、存在感を引き立たせています。変に見どころを作ろうとしない自然体な音の運びには納得させられました。

あと、何気にタイトルのフォントにも僕は勝手に意味を見出してしまいました。「あん」という文字は、バランスを欠いた歪な形で、ハンセン病で指が自由に動かない徳江により書かれたものなのかなぁと。そんな徳江から精一杯伝えられた文字「あん」には、字義通りの意味以上に、作中で説かれていた餡作り、それを通した人生の意味をその文字に見出せるようにも思えて…。こういうの物凄く僕の好みなんです。

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そして何より、それぞれが一歩前に踏み出す物語がすっと心に沁みます。上述したような登場人物3人の変化に僕は泣いてしまいました。

千太郎は甘いものを食べるよりもお酒を飲むのが大好きで、そんな千太郎がどら焼き屋の店長をやっている事に徳江は疑問を投げかけます。「それじゃあどうして居酒屋の店長にならなかったの?」 そう、かつて千太郎は居酒屋で働いていたのですが、客のもめ事を仲裁した際に、誤って客の命を殺めてしまい塀の中に入れられていたのです。出所した後、今のオーナーに慰謝料を肩代わりしているという負い目もあり、やりたくも無い、好きでもないどら焼きを焼く張りの無い雇われ店長の日々に突き落とされます。

そして徳江との出会いは彼の憤懣やるかた無い気持ちをゆっくりと氷解させていきます。小豆の旅の話を聞いてあげる、小豆をもてなしてあげるという、徳江の丹精込めた餡作りは仕事の楽しみを生み、生きる活力を与えました。

しかし、千太郎が前に進もうとする度に災難は続きます。店が繁盛し始めたときに徳江のハンセン病の噂が広まる、独自のメニューを開発して”自分の店”を運営しようとした矢先にオーナーにより店をお好み焼き屋に変えられる…。

それでも、徳江の死を契機に、いや、彼女の遺言を契機に、千太郎は自分のやりたい事をやり通します。最後のシーン、彼はお好み焼き屋には居らず、公園で小さな屋台を出店し、声を張り上げていました。「どら焼き要りませんか?」それは千太郎が刑務所から出て、初めて本当の意味で”塀”の外に出た証ではありませんか。陽の下で彼は納得いく人生をスタートさせたのです。

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徳江は小さな、それこそうら若い乙女ともいえる年齢で自身がハンセン病である事を知らされ、隔離されます。子供を身ごもりましたが、結局はハンセン病と言う事で産むことも許されず、(物理的に)塀の中に囲われたままでした。人権が奪われ、また蹂躙されたような日々を過ごさねばならない彼女は、自分が生きている意味は無いのではないかと考えるようにもなりました。しかし、やがて彼女の周りの自然、それの発する声に耳を澄ませるようになったのです。感性の世界への遊離、それは塀に囲われていた彼女が唯一自由になる方法だったのかもしれません。そして「この世を見るために、聞くために生まれてきた」「何になれなくとも生きる意味はある」という思いを強くします。

それでもやはり思うのは、陽のあたる社会で生きたい、という事。週に一度の散歩の際に、徳江は悲しい目をした千太郎を見つけます。自分が子供を産んでいたなら丁度このくらいの年齢・背格好になってたであろう千太郎。自分が社会で働きたいという思いと、千太郎に対する親心に似た感情を抱いた徳江は千太郎の元で働き、50年間ハンセン病の施設で作り続けていた餡子作りと共に、彼女なりの生きざまを伝えようとします。

死期を悟って外の世界に思い切って飛び出した徳江は、結局のところハンセン病に対する世間の無理解と偏見と差別を再認識しただけでした。しかし、外の世界に触れ、まるで自身の子供の様な千太郎との交流を経験し、満足して死んでいった徳江は、最後の最後に自分の人生に納得できたのだと思いました。

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ワカナは母子家庭の中学生であり、いわゆるネグレクトの様な虐待を受けて育っている様に窺えました。中学三年になって高校進学を望むも、母親からは必要ない働け、と一蹴されます。母親から自由になろうにも行動に移せないワカナは、見えない”塀”にとらわれているかの様です。そして母親の愛を受けられず居場所を持たない彼女は、アパートに小さなカナリヤを飼い、そこに愛を注ぎます。

そんな彼女も徳江や千太郎とのやり取りに触れ、人の温もりを知り、そして徳江と家出した際にカナリヤを預かってもらう約束をします。やがて、実際に徳江にカナリヤを預けますが、徳江はすぐにカナリヤを逃がしてしまいます。籠の中に囚われたカナリヤの姿が自身の姿と重なったと話す徳江にワカナは何を感じたのでしょうか。最後のシーン、満開の桜の下に高校の制服姿で映るワカナ。きっと彼女も自身が納得のいく選択を行えたのでしょう。

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このように三者三様ではありますが、各々が出会いを通じて”塀”の外に出て、納得のいく人生を生き始めた、達成した、という変化を最後に見せてくれたのです。脚本、満点。他にも、千太郎と徳江との関係性にも泣かされた。千太郎は服役中に母親を失い、その償いの気持ちも助けて、徳江に優しく接し、徳江は自分が授かっていたであろう子供を想像し、親心を以て関わっていた。何と悲しくも暖かいことか。ストーリーが進行するにつれて、それぞれがどのような思いにあったのか明らかにされていって、もう涙腺ボロボロ。

皆さんにも鑑賞を強くお勧めします。

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